Okhotsk 流氷つれづれ草

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気まぐれ年賀状 山眠り、海眠り、また 海明ける
流氷つれづれ草(5)
 海 眠 る

   流氷閑話 『臥遊録』という中国の漢詩集に、
   「春山は笑うが如く」、
「夏山は滴(したた)るが如く」、
         「秋山は装(よそお)うが如く」、
「冬山は睡(ねむ)るが如し」
   という意味の詩があります。ここから我が国の俳句の世界では
   「山眠る」が冬の季語とされました。
    冬、僕たちの暮らすオホーツクの海辺。山が眠り、川が眠り、
   やがて海も眠ります。そしてまた海明けの春がやってきます。

皆さま、よいお年をお迎えください。

道立オホーツク流氷科学センター 職員一同

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気まぐれ写真 その4 凍てついたアムール川河口

ロシア極東の大河・アムール川、中国名は黒竜江(ヘイロンチャン)である。
字の如く大蛇が這うようにシベリアの大地を流れ、
大量の水と栄養分をオホーツク海に供給する。
アムール川はオホーツク海の流氷の生みの親であり、
オホーツク海の生き物の育ての親である。
写真は間宮海峡に近い河口の冬の風景である。

流氷つれづれ草(4)
 流氷閑話 ロシアのメッセージには気を付けろ!

 当時、私たちの流氷研究のためのオホーツク海参りはハバロフスク経由だった。ソビエト政権が崩壊して間もなくのことである。すべてが混乱のさなか、郵便、通信事情も最悪の時代だった。
 ここには北海道新聞の支局があり、この地を訪れる毎になにかとお世話になった。日本を発つ前、本社外信部に何かお手伝いできることはないかと電話すると、渡りに船と重要書類の手渡しを頼まれた。
 飛行機は定刻でハバロフスク空港に着いた。しかし出迎えるはずの支局長の姿は見当たらない。何か事件でも起こったのだろうと思い、ホテルへ向かった。フロントでメッセージはないかと訊ねると、貴方の階のジェジュールナヤに聞けと素っ気ない。
 ロシアのホテルでは、各フロアーのエレベータ近くに机があり、そこには大概太ったおばさんが退屈そうな顔でデーンと座っている。フロントでもらった紙切れを渡すと、部屋の鍵をくれる。ジェジュールナヤとは、このおばさんの職名で、いわばフロアーの責任者兼 世話係である。 
 ここで、また「メッセージはなかった?」と訊ねた。 答えは「ダー(ロシア語でYesの意)」である。ほっとして、メッセージのメモを催促すると、にこにこ顔で「パトム(あとで)」との返事である。さすがはゆったりとしたロシア人の心、後でもってきてくれるのだと解釈して部屋で待った。
 間もなくノックの音がした。どうぞ というと、絵本から抜け出たような ぴちぴちのロシア美人が滑り込んできた。ジェジュールナヤおばちゃんではない! 何かご用ですかと、我ながらうわずった声で訊ねた。
 「アオタさんですね?」と聞く。「ダー」と答えると、にっこりと微笑みながら、勝手にソファーに座った。支局長氏すごい美人秘書を採用したものだと羨ましい気持ち半分で話を進めるがどうもつじつまが合わない。
 とうとう何のご用ですかと訊ねる羽目になった。ロシア美人は、可愛い口を尖らせて「貴方がジェジュールナヤに頼んだくせに!」と怒りだした。 
 頭脳をフル回転して考えた。おばさんのメッセージ、メッセージ・・・???しまった。メッセージ違いだ! 
 嵐が去ったあと、おばさんの机に「マッサージを希望の方は申し出ください」と書いた張り紙を発見した。
 ロシアを訪れる方は、くれぐれもメッセージにはご用心!
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気まぐれ写真 その3 はぐれ氷

オホーツク海の海明けも間近です。はぐれ氷が流れていきました。

流氷つれづれ草(3)

 思い出の記 我が家のサケ遡上見学行

 僕が紋別へ来た昭和40年の夏以来、我が一家は決まって近くの川へサケの遡上見学「サケ参り」に行った。金も時間もない僕の数少ない家庭サービスであった。
長女がまだまともに口も利けない年頃のことである。ある夜、「オトウタン、人もみんなシムの?」と訊く。「シム」の意味が理解できなくて何度も聞き返した。「あの川のおサカナと同じように」という言葉でやっと理解した。「シム」とは“死ぬ”の意味だったのだ。
 「おサカナは死ぬけど、生まれた赤ん坊は大きくなってまた戻ってくるんだよ・・・、死んだおサカナは鳥や熊さんのご飯になって、・・・」と子供向けの食物連鎖の話の断片が幼いこころに残ったのであろう。
 時が流れた。女房と二人きりの暮らしになったが、夏休みになるとあの娘たちの子ら、つまり、孫たちがやってくる。今年もみんなでいつものサケの遡る川へ行き、僕は同じおしゃべりを繰り返すことになるのだろう。昨年、「サケ参り」から戻った夜の寝床で、孫の一人が真面目な顔で「カイチョウチャンもシヌノ?」と訊く。“会長”、厳かに応えて曰(いわ)く、「そうだ。遠い、遠い天国へ行くんだよ」。孫、「じゃ、カイチョウチャンとお話できなくなるの?」。会長、「そうだなー、だけど宇宙からみんなを見ているからね。・・・」孫、納得したらしく「わかった、ボク、電話するね」といって寝てしまった。ギャーテー、ギャーテー・・・合掌。

 解説:「カイチョウチャン」について。10数年前、例の「シム」の長女が2,3歳になった初孫を連れて紋別へ来た。周囲が「おじいちゃんに抱っこしてもらいなさい」とけし掛けた。当時、私はこの地方の水泳協会の会長をやらされていた。咄嗟(とっさ)に「俺は、おじいちゃんではない!会長なのだ。」とふざけた。以来、全孫(ガキ)連はボクを「カイチョウチャン」と呼ぶようになった。断じて孫たちには「おじいちゃん」とは呼ばせないのである。 

※8月19日オホーツク・ふるさと発見エコ・ツアーサケ遡上見学大作戦
 詳しくは 「流氷倶楽部」の項をご覧ください。

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気まぐれ写真 その2 アイスフラワー

冷えきった夜が明けた。氷野に華が咲き朝日に輝いた。
一面の氷の華、足の踏みどころもない。
氷海のお花畑である。氷の華は小さくて脆い。
陽があたると、瞬く間に繊細さは失われていく。
短い華の命である。

流氷つれづれ草(2)

 つれづれロシア語講座―ズロース・イッチョウ―

 紋別には「日本人専用」なる看板を掲げたバー、飲屋さんがいくつもあります。これが英語、フランス語、中国語、・・・と数十カ国語で書いてあるなら、字が小さ過ぎて誰にも読めず、多分問題にならないでしょう。それにも めげず 天眼鏡と辞書を手に、何日間も掛けて読み終えた人(多分に偏執狂)は、「ウン、ここは鎖国主義者か国粋主義者の寄合所にちがいない」と呟きながら、疲れ切って家に帰って寝るだけ、これも問題になりません。

 ところが現実には、この看板ロシア語だけなのです。これは明らかに「ロシア人拒否宣言」です。どこか外国に行って「日本人お断り」と書かれた看板を見つけたら、どう思うでしょう。誰だって悲しくなるでしょう。僕はあの素朴なロシア人の心が好きです。たくさんの友人もいます。

 とはいえ、一部のロシア人の無作法な行為を目にすることもしばしばです。飲み過ぎて、お店の中で騒ぐ、閉店時間と言っても帰ってくれない、・・・。そのために他のお客が来なくなったら、お店にとっては死活問題です。「あの看板、好きでやってるんじゃない!」というご意見も当然です。正当防衛ともいえます。
過疎化の進む商店街にとって、ロシア人は大切なお客様、市当局もビラを配るなど努力しています。ところで、ロシア領事館の偉いサンたちは、この憂うべき事態を知らないのでしょうか。それとも、自国人への教育・指導はやってはならないといううるさい国際条約でもあるのでしょうか。ここでまた僕は苛立つのです。

 残念ながら僕が喋れるロシア語は、せいぜい挨拶と乾杯!だけです。ある日、行き付けの水泳プールのサウナで髭面のロシアの大男と一緒になりました。片言のロシア語で「ズラースチェ」と挨拶すると、母国語で声を掛けられた驚きと嬉しさを顔全面に表して「ズラースチェ」と応えました。
この言葉、より正確には「ズドラースーブイチェ」、意味は、日本語の「おはよう、こんにちは、こんばんは、オッス」などどれにも対応する便利な言葉です。日常の挨拶はこれで充分です。早口では「ズロースイッチョウ」と聞こえます。

 僕はこの「水泳プール友の会会長」という重責を担っており、集客の応援もしなければならないのです。ある日、このプールの2人の美人受付嬢に、ロシア人には挨拶だけでもロシア語で言う方がいいよねと言うと、「ロシア語話せませーん」とのそっけない返事。「ズロース・イッチョウ」と言えばいい!と言えども、疑わしい目つき。
偶然、その場に3人のロシア人登場。チャンス到来。僕は、わざと大声、かつ、明確な日本語調で「ズ・ロ・ウ・ス・イッ・チョウ」と声を掛けた。3人のロシアさんも、即座に笑顔で返礼してくれた。ついに、疑い深い彼女らも、僕の素晴らしいロシア語に大いに敬意を表し、感嘆の声を禁じ得なかったのである・・・?

 いまや、当地・紋別の経済はロシアからの輸入カニに大きく依存しています。サハリンでは油田開発が始まりました。近い将来、日本はこの原油輸入国になることは明らかです。ロシアとの交流は否応なく進み、紋別の発展につながる可能性も大です。ちょっと無愛想に見えるロシア人たちですが、避けるだけでなく、こちらから彼らのこころに触れる努力も大切でしょう。ロシアの友も、そこから日本の文化や生活様式を理解してくれると思います。

 今日から、たった一言の「ズロース・イッチョウ挨拶運動」を実行しよう!ついでに、「おやすみなさい」は「スパコイノイ・ノーチェ(静かな夜を!の意)」、「さようなら」は 「ダスビダーニャ」です。では、皆さんダスビダーニャ!

 おっと大切なことを忘れていました。「ズロース・一張」を間違えて「パンティー・イッチョウ!」とは呼びかけないでください。これでは通じないと思います。

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気まぐれ写真 その1 けあらし

オホーツク海の夜明け、陸から厳しい寒気が海へ流れ込みます。
海面に漂う水蒸気が冷やされて微細な水滴になったものです。

流氷閑話と気まぐれ写真展

 ごあいさつ
 平成14年、北大低温科学研究所・流氷研究施設を辛うじて無事定年退職、以降、当センターの非常勤所長として勤めさせていただいています。
 義務でもないのに、周りの迷惑も省みず、毎日出勤、職員の邪魔にならないようにと気にしながらも日々大いに邪魔をしています。
 何か少しでもセンターのお手伝いになることがないかと思案に暮れていたら、ホームページにスペースありとの情報を入手。
 これから月に2、3回の頻度で気楽な流氷閑話やお知らせなどを送らせていただくことになりました。新聞、雑誌など書き散らした雑文に多少手を加えたものもありますが、ご容赦ください。これだけでは一寸寂しいので、百撃ちゃ当たるで!過去、あちこちで撮り集めた流氷の風景を付録(蛇足?)として添えます。皆様の貴重な時間泥棒となるかもしれませんが、お目通し、ご笑読いただければ幸いです。 
 なお、このページを続けて開いていただく方、暇な10名以上のお知り合いへ購読をいただいた方に、(ご希望ならば)来年の海明け以降にオホーツク海の流氷を送料着払いでお送りいたします。ただし、流氷の量は1キロから5トンまでとさせていただきます。

                          平成19年7月3日
                    オホーツク・流氷遊び人 青田昌秋拝

流氷つれづれ草(1)
 オホーツク海語源考

 日本の周りの海で、片仮名の名前をもつのはオホーツク海だけです。はたして、いつごろからオホーツク海と呼ばれるようになったのでしょう。平安〜鎌倉時代、この沿岸には、狩猟や漁労で暮らす人びとが住んでいました。オホーツク文化と呼ばれています。この先住民、その後のアイヌやウィルタの人びとは、この海をなんと呼んだのでしょうか。残念ながら和名はないようです。

 シベリア大陸沿岸にオホーツクという小さな街(市)があります。郊外に大きな川が流れています。昔、ここの原住民エベンは、この川をオカタと呼んでいました。オカタとは、エベン語で 「川」の 意味だそうです。17世紀中頃から、ロシア人が進出、ここに砦を築き集落ができました。オカタ川はロシア風になまってオホタ( Okhota ) 川と呼ばれるようになりました。

 ロシア極東の都市ハバロフスクが、探検家ハバロフに因んでいるようにロシア語では、名詞にスク(-ck)を付けて地名をつくります。この地はオホタ川の村という意味で、オホーツク(Okhot(a)+ck)と呼ばれるようになりました。はじめは河口付近の海がオホーツク海と呼ばれていましたが、やがて、この海全域を示すようになりました。たまたま、ロシア語にはオホタと発音される単語(0xota)があります。「狩 猟」という意味です。ロシア人は、テンやラッコなどの毛皮を求めてシベリアを越えてこの海に達したのです。彼らにとって、この海はまさしく豊かな「狩猟の海」でした。

 名前は舶来とはいえ、オホーツク海は政治的には日本とロシアに属する海であり、地球環境の面からは全人類の海です。いつまでも、オホーツク海が豊かな「海」であることを祈っています。